昭和45年01月11日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 今朝、私、朝の御祈念をさせて頂きながら、本当のおかげが頂きたいなあと、本当のおかげを頂きたい。神様が本当に私に下さろうとしておるおかげを頂きたいなあと。それにはどういう信心をさして頂いたならよいだろうかと。もう是はいつものことですけれども、ここん所をいつも真剣に考えます。もう親先生あなたこがしこおかげ頂いとんなさるから、もうそれから以上は欲な事ですよと言う人があるかも知れません。
 それでもね、まあだまだ神様が私に下さろうとしておるおかげはこの位な事じゃあないと思うんです。勿論そこには神様の、助かりの場を神様ご自身が求めておいでられます。これは決して私だけの事ではありません。皆さんも一人一人だって同じ事が言えるのですね。皆さんでもやっぱりそれを思われなければ、私は嘘だと思うんですよ、ね。本当のおかげが頂きたいと、その願いが切であればあるほど、信心にも矢張り身が入って来るというものですよ。
 欲な事は言わんと、もう是だけのおかげを頂けばと言った様な、あぁ事では神様の方ががっかりなさるだろうと。恐らくは一生涯、本当のおかげを頂きたい本当のおかげを頂きたいと、その願いに明け暮れると言う事が、私は金光様の信心である。どれだけ自分の一生一代の上に、どれだけ神様を現す事が出来るか、どれ程おかげが受けられるかという所にです、私は命を懸けると申しますか。
 昨日、夕食の時に炬燵の間で頂きましたら、丁度テレビが何かあってました。皆さん一生を何に懸けるかと。人生は博打だと言った様な事を何か言っておりました。そして競馬があっておる所を映っておった。で私は競馬に懸けると言う様な(笑)、事の様であった、まぁそれはそれだけの事であったけれども、そこに誰でしたかね、愛子か誰か愛子でしたでしょうか、誰かがおりましたから、世の中には様々な人があるなあ、競馬に命を懸ける一生を。お互い命を懸けると、ね、
 本当にあのうひとつの生きがいというかね、お互いのその生甲斐をですね、競馬ぐらいなものに懸けると言った様な事ではね、馬鹿らしい気がいたしますね。信心しておかげを受けると様々な願いから入ってまいります、そして愈々真の道が分かり、真の信心を本気でさしてもろうてです、本気で所謂本当のおかげを頂きたいと願いを立てる。その本当のおかげは、ね、体が健康でありゃええ家庭が円満でありゃあもういいと。
 お金もそげん沢山な事はいらん、もうまあ銀行にお金を預けてその利子で結構食べていけりゃええ、その位な金が頂けりゃあいいと。と言う様な事でですね、金光様のご信心を頂いておるとするなら、こげな馬鹿らしい話はないと思うですね。初めは誰でもそこから入って来るにしましても、矢張り本当のおかげと本当のおかげとはどういうおかげだろうかと。本当のおかげを頂きたい、本当のおかげを頂きたい。
 神様が本当に下さろうとしておるおかげを頂きたいと、そういう願いに燃える、ね、その為に命を懸けるその為にお互いの信心が懸けられる。そこに自分の命を懸けると、と言う程しの所までね、私は金光様のご信心を頂かなければあぁ本当な事じゃないと思います。それにはね矢張りこの58節の「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても」と、ね、例えばというだけの事じゃないですね、悪口というだけの事じゃない。
 場合によると本当に言うなら信心、信心気違いじゃなかじゃろうかと、ぼうけてしもうとると言われる様な事も矢張り、本当なおかげを頂く前提としては必ずあるです、ね。俺がどこが乞食かと俺がいつ泥棒したかと、開き直らなければならいない様な事がありますけれども、そこん所をですそこん所を、ね、「神がよく見ておるしっかり信心の帯をせよ」と言っておられます。
 そういう時に本気で信心の帯をしっかりして、ね、神様がご承知なのだから、所謂神様がご承知の世界に生き抜く事が、信心だからとうふうにここでは申しますよね。その時にしっかり信心の帯をしとかんと出来んのです。私今日はですね頂きました、あぁどこを頂こうかと思うたら、真の道の心得と言う所に真の道の心得に「まことのみち」とひらがなでかなが打ってありますね。ですからそこの所を今日は頂いたんです初め。
 ですからまあ真の道という事を、がそう難しい所から入る、中々入れません、ですから見やすう見やすう、所謂真の道を求めての信心が、の姿勢というものが先ずいるんだと、ね。私は今日切実にまぁ感じた本当のおかげが受けたいなあと、本当のおかげを受けたい。それには先ず改まらなければ研かなければとか、というふうに様々頂いて来て参りましたけれども、今日はそう言う所は勿論頂いておりますからね。
 58節の只今申しました、愈々の時にです、「神が見ておる、しっかり信心の帯をせよ」と仰る、愈々の時にです、愈々本当の意味で見やすうから段々難しい真の道に、私共飛躍しようとする時に、ね、ひとつの是は段階過程としてですね、通らなければならない所だと、ね。今日はこの58節の、いわゆるこの58節、「58」という事を頂くんです。そいでまあ、ここに58節に御理解をまぁ引用して、ははぁこの内容も頂かなきゃならんことだと、ね。
 どの様な例えば乞食じゃと言われても、泥棒だと言われてもそれで腹を立てる様な信心じゃあ駄目だと。それで言い訳する様な信心じゃあ駄目だと。それでへこたれる様な信心じゃあ駄目だと。神様が見てござるのだとそこを信じて、そん時に愈々信心の帯をしっかり出来るおかげを頂かなきゃならんのだと。「58」と言う事はね、私はどういうふうにここを頂いたらいいかという事は。
 50というのは極楽行きの稽古と言われておりますよね、仏教では(50?)と申しますね。浄土宗行じる(?)でやる事でしょう。50、50に参加する。それは何日間かお寺さんに泊まり込んで、愈々人間の欲悪煩悩を外して、極楽行きの稽古を本気でやろうというのが、あのう50という内容はそういう意味なんです。「8」というのは広がるということ。ですから本当のおかげ本当のおかげと言うが。
 本当のおかげというのは、ぎりぎり何なのか、結局私は仏教でいう極楽行きだと思うんですよね。是は精神を通して、ならこの世でも極楽のおかげを頂くなら、その極楽があの世にも繋がるというおかげなんですね。ははぁ今日私が本当におかげが頂きたい、本当におかげが頂きたいと言う所の焦点はそこなんです。金が儲かるとかより幸せに遭うとかという事もそうでしょうけれども。
 結局は私共が極楽行き、極楽行きの稽古をさして貰い、しかも是ならば必ず極楽行きが間違いないと、愈々広がって行くおかげを受ける為に私共がまず、見やすい所からでもよいから、ね。こうやって折角信心の稽古に通うのであるからまあ見やすう、ね、真の道真の道とはどういう道をもって真の道というのかと、ね、まあそれをまあここでは、まあ色々に説いておるわけです、ね。
 先日、昨日一昨日でした、久留米の佐田さん達が親子で2度目のお参りで、丁度私が4時の御祈念を入らして頂いておる時に参ってみえておられる。で私こう下がらして頂いて、まあお尋ね色々お届けを聞かせて頂いて、その前日があちらの共励会であった。もう朝から朝の御祈念の、を頂いて御理解を頂いて、まあ家族中の者が、どんなに考えてもおかげ頂いておると。
 まぁだ信心の言うなら年数も浅いのに、共励会を自分の家でさして頂けれる、まあ合楽の主だった信者さん方が集まって頂いて、信心の共励をして頂くと、どんなに考えてもお婆ちゃん、こげな有り難い事はないですばいと言うて、まあ親子で話さしてもろうて。丁度その日が恵介君がこの、丁度去年のこの寒修行からお参りを始めて、まる一年に今日でなりますというお礼が朝お届けになっておった。で、
 そう言う様な事も加えてですね有り難い。一家をあげてこうして信心が出来ておると言う事。私まぁ本当に一家が勢を揃えて信心するという事は、こんなに有り難い事だなあと思うたんですけれどもその、ここで色々お届けなさいます中にですね、こう言う事を言うておられます。私達がお母さん、こうやって日々朝参りをさして頂いて、信心の稽古をさして頂いておると言う事はね。
 結局日に日にさらな信心、親先生が受けていかれる日々さらと言われるあの信心を頂きに行くのだと。私はね真の道の見やすう、見やすうというのはそう言う事からだと思うんですね。親先生が毎日、日に日にさら、日に日にさらだとこう言うておられて、成程先生のご信心を見せて頂いておる、聞かせて頂いておると、あれこそ新らだろうと。その証拠には日に日に新らなあの様な、御教えが頂けれるという事は、確かに親先生の信心が日に日に新ら、その新らな信心を私共は頂きに行くのだとこういうのである。
 私ここ今日私が真心を見やすうとこう、ひらがなで「まことのみち」とこう頂いた事はです、先ずそう言う所が真の道への第一歩ではなかろうかとこう思うです、ね。親先生の信心を毎日こうやって、家族中で頂きに行っておるんだと。してみるとお母さん、あなたは今年が満70になったとこう言われる、こう70になられた。なら成程年こそ拾うて行かれておるのだけれどもです。
 信心は日に日に新らになって行きよんなさる訳ですから、あなた信心の上で言うと、ひとつずつ(笑)、言うなら若うなって行きよんなさる様なもんですよっちゅう訳。はぁ成程信心が巧者になって行くという事はね、一年一年若うなって行く事なんだと、年を取っていく、ね。そう言やあこの頃、佐田さんのお母さんが着物も派手になっとんなさる事に気付かせて頂いた。本当この頃ちょっとそれが段々話を聞きよったらね、反物買うでも下駄買うでも十(とんお)だけは、その若く言うっち。
 私はもう70になりますけんちゅって、ばばさんのごたっと出す(笑)。だから私は60ちゅうと若いと(笑)。だから形の上においても、お婆ちゃんが言うておられました、ご信心を頂く前に私は本当に沢山の薬の入った薬箱をどこにおっても持って歩きよったっち。それが薬のくの字も言わんで済む様になった、ね。しかもおかげを頂いて本当に恵美子さんが言う様に私は確かに、確かに年だけは拾う定期よりますけれども、信心が日に日にさらな信心を頂いて行きよると言う事は、若うなって行きよります。
 もう下駄でも何でもだから私は今度、今買わして頂いておるのは、そういう意味で若い所謂段々段々若生なって行く言う様なね、信心をさして頂いておるという意味の事を話しておられます。私は見やすう見やすう、信心の入り口に立たせて頂いたらその様な事になると言う事です、真心、真の道ということは、ね。年は拾うていってもです、ね、それから、次に恵介君のことを言うておられました。
 学校から帰って来たらぼんとその、遊びに行くよっちゅうて行く。それでお母さんが家から、自転車で行くと危なかけんが、自転車で行っちゃいかんよっ、ちゅうて家からおらんだ(笑)。ったら恵介君がいわくです、ね、僕はねいつも自転車に乗る時には神ながらにしか自転車は使わんっち、ね。だから僕はそのう自転車入れてある倉庫に行ってから、もし鍵が掛っておる時には、神様が今日は乗っちゃいかんち言いよんなさると思うて、僕はいつでん乗って行くまいがって。
 今日でも空いとんなら乗って行くばってん、詰まっとんなら乗って行かんち(笑)。ね、だから僕も安心して自転車に乗って行けれる、お母さん達も僕が自転車に乗って行きよったっちゃ、安心しなさいという訳なんです。僕はそんなに言うなら真の道を行じて行きよるという意味なのですよ言うなら、ね。私はここで真の道ということは、ね、神様が私共に求め給う、自然が求め給う修行を合掌して受けて行く事だというふうにも申しますでしょう、ね。
 自然の働き、ひとつの自然のリズムに乗っての生活、それが真の道だとこう申します。神様が行っちゃいかんと仰る所を、強引に押し切って行くと言う事は、もう真の道から反れる。そこの所の会得というか、それをまぁ恵介君は子供ながらも感じとっておる訳ですよね。そこでならお母さんの恵美子さんがです、もうそれを聞いてから成程、自転車に乗って行く、あなたが自転車に乗っていく時でも、自転車乗っちゃいかんばいと言う事はいらん、本当に安心して出す事が出来る、ということになる訳です、ね。
 是なんかは私は見やすうもうすでに子供ながらも真の道を、に入っておるのである、分かって行きよるのであると私は思います、ね。そういう生き方をですね、さして頂くと。昨日、久留米の光橋先生が、あと残りましてから今度先生学院行きを致します。ことにまぁだい、だからお家でも大体まあどうせあんたも行かんなんとやけん行くなら、一年でん早かばよかばのっちゅうて、親子さんも言うて頂くから、その積りでおった。
 ところが先生、昨日その北野の方の母がやって参りました。ここの若先生と友達になります長男がおります。その人がそのお母さんの身を案じて北野に行きまして、お婆ちゃん、お母さんがもう50幾つにもなって、それこそぼうけてしもうちから、今から金光様の先生になりげに行くというその、学院に入るげなとどげん考えたっちゃ50幾つにもなってからそげなことは無理だからいかんから、ばあちゃんあんたが止めてくれと言うて、その、言うて頼みに行った。
 お婆ちゃんもそれを聞いて、ほんに(まさたかさん)、あんたが言うたがほんなこっちゅう訳で、まあ久留米にそれを止めに来た。通町の方にも話した、ね。所が話が今度は段々段々ほんなこて、もうミシカさんが行くならもうあちらのお婆ちゃんも70からだそうですから、もう洗濯や何やらもうしゆうごとはなかと。だから今度はもう行かん方がよかろうというふうに、話が段々こうなって来た訳です、ね。息子が言うお母さんにお婆ちゃんに言うてくれんのっち。
 もう病気でんしたっちゃ絶対あんたがそげなん事言うちから行くごたるならもう私は構わんち。その長男がその言うたとこう言う訳なのである、お婆ちゃんを通して。だから私は別に光橋先生、あんたがさっち学院に行かにゃならんちゅう事はないとばい、だから問題はあんたの腹ひとつだと、ね、本当に病気でんした時、息子が見てくれんというごたるこつも困った事だと、ね。
 だから結局まぁあんたの心次第だと、まぁ光橋先生の心任せにまぁ私はしておるわけで御座いますけれどもです、成程まぁ周囲の者から子供達から見りゃ、金光様にぼうけてしもうちからと言う事になるでしょう。けれどもここに私は本当にです「神がよく見ておる、しっかり信心の帯をせよ」と。成程言やぁそうなんだけれども、ここはひとつ本気で信心の帯をしなければならんのじゃなかろうかと、私は思うんです。と言うてまぁよく信心で、考えなさいと言うて、まぁ言うております。
 どうでしょうか皆さんなら、これ第三者の側から見るとすぐ分かるとこですけれども、実際その場に立っておる本人は、中々矢張り色々考えさせられる事で御座います。親も言い子供も言うので御座いますから。しかもんなら財産は子供、あのあれだけの通町に大きな家屋敷を持っておられて、長男の嫁ですから、財産はこれこれ分配してやると言う。もうひょっとするとその財産だけでじっとしとりゃ食べられるぐらいな事はあるだろうとこう思うです、ね。
 ですからまあ果たしてどちらを取るかはです、まぁ是からの光橋先生の信心を待つより外にないですけれどもです、例えばその様な場にお互い立たせられた時なんです、今日の御理解、ね、本当の言わば極楽行きの稽古と言う事が信心の眼目であるとするならです、ね。私は今日ここへ座って頂いた事の中に「梅松桜」と言う事を頂いた。今日いう先程から私が申しました様に、一生を何に懸けるかという、人生は博打だと言うのですから、あの「梅松桜」というのはあの博打の時に使う花札あれがあのなんですね。
 私も一通りは知っております、北京に行っとったから。私はもう是は大嫌いもう握る事も好かんです本当は。けれどもあちらへおりますとね、マージャンもしなきゃならないし、花札の相手もしなきゃならん事があるんです。もうけれどももう是はもうふるふる好かんです、この勝負事だけは。
 もう私は極言するなら勝負事するやつは、絶対成功せんとさえ私は思うですね。そげん私は嫌いです、ね。ですけどもその人生が博打だと言った様な事を頂いたから、
   (テープ録音不良
 かいですね、役の中にこの(おおざんこざん?)ちゅうんですか、「梅松桜」というのがあるんです。梅はやはり辛抱、竹はまあ素直と言う事でしょう。光橋先生なんかはそういう意味合いにおいて、素直という点においても素晴らしいし、ね、それから辛抱強いと言う事においても素晴らしい。けれどもね、こういう信心がでけておるだけではね、本当のおかげの入り口に立った時におかげ頂かれんです。
 ただ素直で御座いますと、ただ辛抱強う御座いますというだけでは。私は今日この「桜」と言う事を頂いた事はね、潔さだと思いました、ね。松栄会の方達が発会します時に頂きました御理解がです、ね、松栄会に入会を皆んな、例えばあぁすると。それにはね、その潔さが第一だと言う事であった。それはね飛行機からパラシュートを抱いて飛び降りる位な勇気がなからなければ、松栄会には会員としてはもう参加できない。
 是はもう矢張りですね、大変な勇気がいる事だろうと思いますよね、あの、ね、飛行機の上から)飛び降りると言うのですから。そらもう絶対このパラシュートが百発百中開くと言う事は分かっておっても、中々その勇気というものは大変な勇気がいるんじゃないかと思いますよね。信心もそうです。もう絶対開くんです、是はもうパラシュートよりももっと確実なんです。そういう元気な心をもって言わばですね。
 いわゆる潔い信心をさして貰うならもうおかげの開けると言う事は絶対なのだと、ね、ぐずぐずしてから、開き損なう事に成るかも知れんけれども、その潔さがある限りです、所謂ままよと「ままよとは死んでもままよのことぞ」と仰る様にです、十二分に徳が受けられると言う事はそれなんです。ただ辛抱強いただ素直である、成程是で信心のおかげを頂く、信心の尊さに触れる事は出来ましょうけれどもです、ね。
 十二分の徳を受けようと思えばと言う所にはなって来ないとこう思うです、ね。所謂「58」である。愈々ね極楽行きと、もう愈々広がるばっかりだと私が共命を懸けると言うならです、博打に懸ける訳じゃない、道楽に懸ける訳じゃない、懸けるなら所謂真の信心に命を懸けにゃいかんです。ただ金光様の信心に命を懸けるというだけじゃつまらん、一生信心しますというだけじゃつまらん、金光様の信心を頂いて、ね。
 先ず見やすう見やすう、真の道をの入り口に立たして頂いたら、それを佐田さんの例をもって申しました、ね。日に日に新らな信心を頂きに行く、恵介君の例を持って申しました。そういう成り行きというものを重視に、重点に置いての生き方、そこに辛抱強さが求められ、又は素直さが求められる訳ですけれども、そういう信心が進められていく時にです、私共がね、毅然とした信心が要求される場合があると、ね。
 それはパラシュートを抱いて、飛行機を機上から地上へ向かって飛び降りるほどしの勇気が必要な時があると、そこに初めて開くものが開く、おかげを頂かせて貰う、所謂「58」が、ね、本当の極楽行きの道がそこから開けて来るんだと、そこへ懸けるなら命を懸けようと、と今日は教えて頂いた様な気がするのです、ね。辛抱強さと素直さとそれはね、日頃身に付けていきよりますよ。
 けれどもね、是はあの矢張り松栄会の人達が、会の会歌、歌というですかね、ね、「見事散りましょう道のため」というような歌を会合する時に歌っております、ね。それは勿論さくら花の事です、ね、道のためならです所謂そこに命を懸けられると言う事です、ね。そういう潔さがなからなければ松栄会には入れんと。また自分達も自負して信心を、まぁ進めておられるわけですけれどもです、ね。
 今日は忙しいけんで御無礼しよう、そげな事では松栄会に入られんと、ね。もう今日例えば、信司君がよく体験する事ですけどね、むつやの。今日は大売出しじゃから、大売出しじゃろうが何じゃろうが、今度のご大祭の時、丁度売り出し中だったんですね、報徳祭の時に。自分は前の日からここで御用を頂いておるから、まあ潔うやって来た訳です。所が他の兄弟達も青年会でおかげ頂きたいのです。
 玉串まであたっとるけんばってんか、俺達にお前どんまで来てしまいよると、同校できんけん、お前だん今日は御無礼せろっちこう言うた、ね。自分だけ潔うやって来たけれども、店、店の事が心配になった。所がもうその日に限って大売出しっちゅうのに、いつもよりも売れんじゃったっちゅう。はぁやっぱり松栄会員の、者に対する神様の期待が大きい証拠だとこう。
 あれを潔うです例えば一週間の、大売出しならばです、ね、例え2日間休んで5日間ででも私は一週間分のおかげを頂きゃいいじゃないかと。それを自分が来たもんじゃけん、店を閉める訳にはいかんと。それでお前だん今日はお参りをするなっちゅうてお参りをせん。それは自分だけは卒業した、あのそのおた見事におかげ頂いた積りじゃったけれども、家の方が大売出しだからと言うて、お参りさせなかったら大売出しの方が、いつものよりも売れじゃったと言う様な結果になっておった。
 まあそこで、まあ愈々分からせて頂く事で御座いましょうけれどもね。そういう時にです、私共がね潔いという言葉を使うなら、使わにゃいけないと思います。もうそこんとこがすきっと出来るごたる今日信心頂きたいねと。と、まあ言うた事です、ね。こと神様こと信心、神様がご承知の世界に生き抜く事なんだ。人が馬鹿と言うても阿呆と言うても、いや、泥棒じゃと言うても乞食じゃと言うても、信心気違いじゃと例えば言われても、しかも自分の子供から、または自分の親からそれを言われてもです。
 例えば光橋先生の場合なんか、ね。ここにひとつ、潔う信心の帯を本気で絞める時に立たせて頂いておるのじゃなかろうかというふうに思うのです、ね。ただ素直な信心が出来ます、辛抱強いというだけではなくて、愈々の時にですこの桜の信心、これは華やかという意味ではなくて、潔いという意味で今日は皆さんに聞いて頂きました。真心といや「まことのみち」とひらがなで頂いた。
 そういう見やすい所から私は真の道に立たなければならない。そこから真の道が段々漢字で書かして貰う様なです、少しは難しい所へ、本当な所へ入らして頂いて、勿論辛抱強さが求められ素直さが求められ、そして愈々の時、私は「見事に散りましょうと」言えれるようなですね、散れれる言わばままよという心。それは死んでもままよと言う様な潔い信心が出来る。そこから十二分に徳が受けられる。
 是ならば愈々極楽行きの道は愈々末広がりに、八の字型にです、広がって行く事であろうとこう私は思います。今日私が頂いたのは「まごころ」とひらがなで頂いた。それから「58」ということを頂いた。それから「梅松桜」を頂いた。神様に頂いた、そのことから、まあそれに肉をつけてお話をすると、今日の様なお話になると思うのです。
   どうぞ。